2017年8月1日火曜日

海の向こう



いやはや


ライブに向けて歌を作ろうと思ったものの

結局前日までに出来ず


当日


朝から5Bの鉛筆を持って紙とにらめっこしていました


家を出る二時間前


ふと


何かが産まれる感覚がジワジワと湧いてくるのがわかりました


曲を作る時もそういうことがあります。


ほら、面白いことが始まるよ

さあ、ほーら。







次第に体が温められて、なんとも言えない大きなものに

優しく包まれていくような安心感。


それはワクワク感


それを幸福感


と言ってもいいのでは


と今は思えます。


とにかく


カラカラに枯れた井戸の底からまた水が湧いてくるような


潤っていく感じ


キタキタキタキタ、、、!


この感じ



君は一体どこへ行ってたんだい?



数年前


このブログに引っ越しする前に書いていた先代のブログ


あの頃


明け方まで貪るように書いていた


無我夢中で、自分でもわかるほどニヤニヤして書いていた。


そんな自分がある日、特に理由もなく書くことを止めてしまった


いや


それは徐々に井戸が枯れ始めていたのかもしれないけれど


とにかく


書くことをやめてしまった


ひとたびやめると


一体どうやって書いていたのか、全く思い出せなくなってしまった。


完全に欠落して辿り着く緒すら、全く見当たらない


記憶喪失とはこういう事ではないか、と思うのだけれど



どうなんだろう



とにかく


また水が湧いてからは


結局30分ほどで無事に書き上げることができた



それで

この産みの苦しみを味わった二ヶ月


何も無いなりに、色々な手法や角度から歌詞を書こうとしたけれど

最後の最後に発見できたのは


「自分が好きな詞と自分が書ける詞は違う」


ということ


それはつまり


「今の自分の書けるものを書く」



とてもシンプルなことだった。



ある冬


渡り鳥がまだ渡り鳥になる前の話


海の向こうのあっち側へ行きたいのだけれど


どうしたらいいのかわからない


魚たちのように泳いでみようと


やってみるけれど


すぐに浮かんでしまう


悩みに悩んで


魚に尋ねて泳ぎ方を教わるんだけれど


ちっとも上手くいかない


やっぱり浮かんでしまう


海は魚たちが泳ぐところ


だから泳いでいかなければいけないんだ


そんな思い込みが僕にもあったんだと思う。


あのキラキラ光る綺麗な魚たちにはなれないけれど


僕には小さな翼がある


海の詞は書けないかもしれないけれど


大空に奏でられる風の歌を聴くことが出来る


知らない街の小さな少年が寝坊をして慌ててレンガ作りの家を出ていく音


どこまでも続く一面の麦畑を金に輝かせる太陽と大地のアンサンブル


いつもそこにあるじゃないか

大切なものはいつもそばにある

そっと耳を傾ければ良い


僕が書いた詞はね

書けなかったことをそのまま歌にしたんだよ


明日タンスの角で足の小指のぶつけたら


きっとそれを歌にする


蚊に二ヶ所刺されたら


三ヶ所目は刺されないための歌を作る


阿久悠にはなれなくても


悪友にはなれる



谷川俊太郎にはなれないけれど


なろうとも思わない



それでいいんだ


それがいいんだ



だから僕はいつも寝坊するあの少年に会うことができたんだよ


ちゃんと渡ったんだ


自分の力で。

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